37年間、全力で育て守ってきた地域医療とそれを引き継ぐ医師の使命感。互いのリスペクトが短期間での事業承継を成功へと導いた。
神奈川県中西部に位置する秦野市。人口は約16.2万人で2010年の約17万人をピークに減少に転じている。市の中心部は県内唯一の盆地地形ながら、太平洋岸気候の海洋気象の影響から一年を通じての比較的温暖な気候が特徴的だ。また豊富な地下水が湧出する秦野盆地湧出群は環境庁による全国名水百選に指定され、弘法の清水を代表に、護摩屋敷の水は市内外から多くの人が名水を求めて訪れる。2022年には新東名高速道路新秦野ICが開通し、県外からのアクセスも向上した。
「秦野北クリニック」はバブル景気に沸く1986年、内藤宗生先生が内科・小児科・皮膚科を標榜して立ち上げ、以来市民にもっとも近い距離から健康を支えてきた。秦野駅からはバス便利用の住宅地での開業から37年経った現在も変わらぬ集患数と高い医業収益が維持されている。
2023年4月、クリニックは駒井好信先生に事業承継された。泌尿器科のスペシャリストとして、国立がん研究センター・がん研有明病院で16年以上がん治療に高度な手技を発揮してきた駒井先生は、医師人生の後半を地域医療に奉ずる決心を固めた。
100人中51人に認めてもらえる医療
―――まず、前院長の内藤宗生先生から話をおうかがいします。岩手医科大学大学院卒業後は、病院で小児科と内科を交互に診てこられましたが、地元に戻っての開業を意識されていたのでしょうか。
(内藤先生)そうですね。最初は秋田厚生連鹿角組合総合病院(現JA秋田厚生連かづの厚生病院)の小児科で研鑽しましたが、開業するのであれば内科もある程度勉強したほうがいいだろうと思いました。
―――37年前では秦野周辺の環境も全然違っていたのでしょうが、駅前立地を選ばずに、バス便利用の住宅地を選ばれた理由は何でしょうか。
開業した1986年はまさにバブル経済を象徴する不動産ブームで、駅近くで手に入れられる土地がなかったのです。隣町出身の母の友人がこの周辺の土地を所有しておられ、一部を譲っていただきました。
―――自院開業で実現したかった医療は?
当時の私はまだ38歳で、母の出身地というだけで私自身には医療上の知縁のない落下傘開業のようなものでしたから、がむしゃらに働くだけ働こうと。実際、最初の5年間は365日中の祝日を除く352日、クリニックを開けてきました。あとは患者さんに取捨選択していただくしかないので、100人診るなかで51人以上の方に納得していただくこと、そこから少しずつ丁寧に信頼関係を作り上げていこうと考えました。
―――皮膚科も標榜されていましたが、それだけ需要も多かったということですか。
需要は非常に高く、高校まで同級生だった友人が当時関東中央病院の皮膚科部長だったことから、頼み込んで勉強させてもらい、最初の1年間は日曜日に診療に加わっていただきました。私には未経験の領域ですし、にわか勉強では専門医にとても太刀打ちできませんから。